『ヴィンランド・サガ』を読んで考えた、理想とリーダーの責任
最近、漫画をよく読んでいます。
少し前に『キングダム』の80巻を読み、そのあと『呪術廻戦』や『進撃の巨人』を読み直していました。
読み終わると、また何か熱い漫画が読みたくなるんですよね笑
そこでChatGPTに「熱い漫画はないかな」と相談したところ、勧められたのが幸村誠さんの『ヴィンランド・サガ』でした。
勢いで、全巻まとめて購入しました。
ちょうどその頃、風邪をひいて数日寝込んでいました。
何かをしようというやる気は起きない。かといって、眠れない時間もある。
そんな時間に、ひたすらページをめくっていました。
気づけば、最終29巻まで読み終えていました。
とても面白かったです。
思わぬ収穫でした。人生での大きな出会いだったと思います。
壮大な物語でありながら、人間の生き方や暴力、平和について考えさせられる場面が多く、読後感も非常によい作品でした。
特に主人公トルフィンの生き方には、強く心を動かされました。
人を殺さない。傷つけない。まずは話し合う。
言葉にすれば単純ですが、それを実践することがどれほど難しいか。作品全体を通して描かれていたように感じます。
ただ、読み終えてから、少し別のことも考えました。
一人の人間として正しいと思うことは、集団のリーダーになっても正しいのでしょうか。
考え始めると、組織のあり方や多数決、責任の所在など、いろいろな問題につながっていきました。
今回は、漫画を読んで僕が考えたことを、少し整理してみたいと思います。
※この記事は『ヴィンランド・サガ』最終巻までのネタバレを含みます。
平和を望む人々が、なぜ争うのか
『ヴィンランド・サガ』の終盤では、トルフィンたちは戦争や奴隷のない平和な社会を目指して、ヴィンランドの開拓を進めます。
しかし、そこで暮らしていた先住民との関係は次第に悪化していきます。
興味深かったのは、争いを望む人々が、必ずしも悪意から行動しているわけではないことです。
家族を守りたい。
自分たちの生活を守りたい。
これまで築いてきたものを失いたくない。
いずれも理解できる感情です。
ところが、それぞれが自分たちの安全や利益を守ろうとした結果、集団同士の対立が激しくなっていきます。
個人の立場では合理的な判断でも、全員が同じように行動すると、結果的に全員が不利益を被ることがある。
いわゆる「合成の誤謬」にも通じる構造だと思います。
善良な人間が集まれば、善良な社会ができるとは限らない。
これは、なかなか難しい問題です。
多数決で決まったことは、正しいのか
集団で生活する以上、意見が割れることは避けられません。
そのとき、現代社会でよく使われる意思決定の方法が多数決です。
僕自身、多数決は合理的な仕組みだと思っています。
全員の意見が一致するまで議論していたら、何も決められないこともありますからね。
ただ、多数の意見が正しいとは限りません。
その場の雰囲気や感情、情報の偏りによって結論が左右されることもあります。
また、目の前の問題を解決するために選んだ方法が、長期的には大きな不利益をもたらすかもしれません。
何より難しいのは、多数決で決まったとしても、その結果を全員が同じように負担するわけではないということです。
例えば、10人の集団で7人が賛成したとしても、反対した3人に取り返しのつかない損失が生じるのであれば、それを単純に正しい決定と呼べるのでしょうか。
多数決は、意見が一致しないときに結論を出すための仕組みです。
しかし、その結論が倫理的に正しいことまで保証するものではありません。
集団が大きくなるほど、理想を共有することは難しくなる
トルフィンは、暴力に頼らない社会を目指します。
僕はその理想を素晴らしいと思います。
ただ、一人で生きる場合と、多くの人々を率いる場合では、事情が異なります。
自分一人なら、自分の信念に従って選択できます。
価値観を共有している少人数の集団でも、意見を調整することは比較的容易でしょう。
しかし、集団が大きくなれば、当然ながら異なる考え方の人が増えていきます。
しかも、最初は同じ理想に共感していたとしても、時間が経てば考え方が変わる可能性があります。
ヴィンランドへの移住も同様です。
最初は平和な土地を作ろうという理想に共感していたとしても、そこで家を建て、畑を作り、生活基盤を築けば、話は変わります。
移住したばかりの頃なら、別の土地へ移ることも比較的容易かもしれません。
しかし、何年もかけて築いたものを手放すとなれば、簡単には納得できないでしょう。
これは、理想を捨てたからとは限りません。
理想を守るために支払わなければならない犠牲が、以前よりも大きくなったということです。
ここに、集団を率いる難しさがあるように思います。
リーダーは、どこまで責任を負うべきなのか
今回、僕が特に考えさせられたのが、この問題です。
ヴィンランドから撤退するという選択は、戦争を避けるためには合理的かもしれません。
しかし、そこで生活している人々にとっては、家や畑、積み重ねてきた努力を失うことになります。
では、その損失に対して、リーダーであるトルフィンはどこまで責任を負うべきなのでしょうか。
そもそも移住したのは本人たちの選択です。
自分の意思で参加した以上、一定のリスクは自分で引き受けるべきだという考え方もあります。
一方で、集団の方針を決める立場にあったトルフィンにも、参加者の生活に対する責任があるように思います。
これが現代の会社であれば、契約書などによって、お互いの権利や義務をある程度明確にしています。
しかし、どれほど詳細に契約を交わしても、将来発生する問題をすべて予測することはできません。
例えば、将来宇宙人が攻めてきて、身体を乗っ取られるような事態まで、契約段階で想定することは普通ないでしょう。笑
もちろん、そんなことが絶対に起こらないと証明できるわけでもありません。
かなり極端な例ですが、そもそも想定していない事態について、事前に取り決めておくことはほとんど不可能です。
また、事前にリスクを説明したからといって、その後の責任がすべてなくなるわけでもないでしょう。
逆に、リーダーがあらゆる損失を補償しなければならないというのも、現実的ではありません。
では、どこまでが個人の責任で、どこからがリーダーの責任なのでしょうか。
正直、僕にも明確な答えはありません。
ただ、大きな決定権を持つ人ほど、その判断によって影響を受ける人々のことを考える責任も大きいのではないかと思います。
信念を守ることと、結果に責任を持つこと
ここで思い出したのが、社会学者マックス・ウェーバーの「信念倫理」と「責任倫理」という考え方です。
かなり簡単に説明すると、信念倫理は自分が正しいと信じる原則を重視する立場です。
一方、責任倫理は、自分の行動がもたらす結果についても責任を引き受けようとする立場です。
トルフィンの非暴力という考え方には、信念倫理に通じる部分があります。
一方、集団のリーダーには、仲間の安全や生活に対する責任もあります。
だからといって、責任倫理を重視すれば暴力が正当化されるわけではありません。
「みんなを守るためだから仕方がない」
その言葉で、どこまでの犠牲が許されるのでしょうか。
実際、ウェーバーも信念倫理と責任倫理を単純な二者択一とは考えていませんでした。
自分が何を大切にするのか。
そのためにどのような行動を選び、どんな結果が生じるのか。
両方を考える必要があるのだと思います。
トルフィンが非暴力を貫こうとしたことには、大きな価値があります。
しかし、その信念を集団全体の方針とするのであれば、他の住民が被る不利益についても考えなければなりません。
逆に、住民の財産を守るために戦争を選ぶのであれば、その戦争によって失われる命にも責任があります。
どちらを選んでも、簡単には割り切れない問題です。
集団から離れる自由と、意見を伝える自由
もう一つ、興味深い考え方があります。
経済学者アルバート・ハーシュマンが提唱した「退出・発言・忠誠」という理論です。
集団に不満が生じたとき、人はそこから離れる「退出」と、内部から改善を求める「発言」という対応を取ることができます。
また、集団への愛着や忠誠心は、退出を思いとどまり、内部から改善しようとする動機になることがあります。
これもヴィンランドの問題に当てはめられそうです。
家や畑を持ち、生活基盤を築いた人々にとって、その土地を離れることは容易ではありません。
退出が難しければ、集団の意思決定に対して自分の意見を反映させたいと考えるのは自然なことです。
ここから、リーダーにはもう一つの役割があるのではないかと思いました。
それは、全員が同じ理想を持つことを期待するだけでなく、意見が割れることを前提として、話し合いや方針変更の仕組みを整えておくことです。
もちろん、話し合えば必ず解決するわけではありません。
それでも、異なる意見を持つ人々が一緒に暮らしていくのであれば、避けて通れない問題だと思います。
現代の会社や組織でも、同じことがいえるのかもしれません。
以前、職場のチャットによる情報共有について考えた記事を書きました。
扱っている問題の規模はまったく違いますが、組織の中で何を共有し、どこまで合意を求めるのかという難しさには、少し共通する部分がある気がします。
それでも、トルフィンの理想は素晴らしいと思う
ここまで考えてくると、トルフィンのリーダーとしての問題点ばかり挙げているような気もします。
でも、僕がこの作品を読んで感じたことは、決してそういうことではありません。
むしろ、トルフィンの生き方には強く共感しました。
暴力を使わない。
相手を理解しようとする。
簡単に諦めず、別の方法を探そうとする。
これは、言葉にするよりもはるかに難しいことだと思います。
そして、理想が実現できなかったからといって、その理想が間違っていたことにはならないはずです。
理想を持つ人がいなければ、社会が変わっていくきっかけも生まれないかもしれません。
一方で、その理想を多くの人々と実現しようとするのであれば、自分の信念だけでなく、他者の人生や合理性についても考える必要があります。
僕は、そこにリーダーの難しさがあるのだと思いました。
理想を持つことと、その理想を社会の仕組みとして実現することは、別の難しさがある。
そして、それでも理想を捨てずに考え続けることには価値があるのだと思います。
もし僕がトルフィンの立場だったら、同じように非暴力を貫けたでしょうか。
あるいは、村の住民として家や畑を手放すよう求められたら、納得できたでしょうか。
正直、どちらも簡単には答えられません。
ただ、答えが出ないからこそ、考え続ける価値がある問題なのかもしれません。
漫画を読み終えた後に、ここまでいろいろなことを考えるとは思いませんでした。笑
それだけ、僕にとって印象深い作品だったということなのでしょう。
それではまた。
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今回はトルフィンの理想と、集団を率いる難しさについて考えました。
続編では、イーヴァルが持ち込んだ一本の剣をきっかけに、「武力は平和を守るのか」という別の問いについて考えています。
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