『ヴィンランド・サガ』から考える、武力は平和を守るのか
以前、『ヴィンランド・サガ』を読んで、理想とリーダーの責任について考えました。
関連記事|第1弾 『ヴィンランド・サガ』を読んで考えた、理想とリーダーの責任 トルフィンの非暴力という理想から、多数決の難しさや、集団を率いるリーダーの責任について考察しました。 philroadster.com主人公トルフィンの非暴力という理想は素晴らしい。
しかし、集団を率いる立場になれば、自分の信念だけでなく、仲間の生活や安全にも責任を持たなければなりません。
そう考えると、なかなか難しい問題だと思いました。
そして、もう一つ気になっていたことがあります。
武器を持つことは、平和を守ることにつながるのでしょうか。
今回は、作中で剣を持ち込んだイーヴァルの行動を中心に、武力による抑止や土地の権利について考えてみたいと思います。
※この記事は『ヴィンランド・サガ』最終29巻までのネタバレを含みます。
イーヴァルは、なぜ剣を持ち込んだのか
トルフィンたちは、戦争や奴隷のない平和な社会を目指してヴィンランドへ移住します。
その際、武器となる剣は持ち込まないという方針がありました。
しかし、移住者の一人であるイーヴァルは、その約束を破って剣を持ち込みます。
彼は、必ずしも戦争を起こしたかったわけではないと思います。
むしろ、自分たちを守るためには武器が必要だと考えていたのでしょう。
その考え方自体は、理解できます。
見知らぬ土地で、言葉も文化も異なる人々と接する。
相手が友好的である保証はありません。
もし襲われたとき、武器を持っていなければどうするのか。
そう考えるのは自然なことだと思います。
僕自身、同じ立場であれば、武器を持たないことに不安を感じるかもしれません。
ただし、ここで区別したいことがあります。
武器が必要だと考えることと、集団の約束を破って秘密裏に武器を持ち込むことは、別の問題です。
イーヴァルが非武装という方針に反対することは、当然認められるべきだと思います。
しかし、集団として決めた約束を個人の判断で破ってしまえば、そもそも集団の合意にはどのような意味があるのでしょうか。
自分が正しいと信じているからといって、他者との約束を破ってよいとは限りません。
ここは、彼の行動の大きな問題点だったと思います。
剣がなければ、争いは起こらなかったのか
その後、先住民の長老ミスグェゲブージュがトルフィンに斧を向け、イーヴァルが剣を振るって長老の腕を切り落とす事件が起こります。
この出来事は、両者の関係が悪化する大きなきっかけになりました。
ただ、イーヴァルだけを悪者とするのも、少し違うように思います。
彼の目の前では、仲間であるトルフィンが斧で襲われようとしていました。
その場面だけを切り取れば、仲間を守ろうとした行動ともいえます。
一方で、トルフィン自身は武器を使わずに対応できた可能性があり、長老側にも対立を引き起こそうとする思惑がありました。
誰が何を知っていたかによっても、行動の評価は変わりそうです。
また、そもそもイーヴァルが剣を持ち込まなければ、争いは起こらなかったのでしょうか。
これも断定できません。
作中では疫病の蔓延や互いへの不信感、それぞれの集団内部の対立など、さまざまな要因が重なっています。
剣がなくても、別の出来事をきっかけに争いが起こっていた可能性はあります。
逆に、剣が存在したからこそ、対立が一気に深まった可能性もあります。
ある行為が結果にどの程度影響したのか、その因果関係を明確にすることは、実際には非常に難しいのだと思います。
ただし、因果関係を完全に証明できないからといって、約束違反が正当化されるわけではありません。
行為そのものに対する責任と、その後の結果に対する責任は、分けて考える必要があります。
これは現実社会でも、しばしば問題になることではないでしょうか。
武器を持つことは、戦争を防ぐことにもなる
ここから、少し話を広げてみます。
武力を持つことは、必ずしも戦争をするためとは限りません。
むしろ、相手から攻撃されないようにするために武力を持つという考え方があります。
いわゆる「抑止力」です。
例えば、攻撃すれば強い反撃を受けると相手が予想すれば、攻撃を思いとどまるかもしれません。
その意味では、武器を持つことが平和の維持につながる可能性があります。
これは現代の核抑止論にも通じる考え方です。
NATOも、核兵器を含む抑止力を、侵略を防ぎ平和を維持するための重要な手段と位置づけています。
ただ、ここには別の問題もあります。
自分たちにとっては防衛のための武器でも、相手から見れば攻撃に使われるかもしれない武器なのです。
例えば、隣の集団が突然武装し始めたら、どう感じるでしょうか。
「これでお互い安心ですね」と考えるとは限りません。笑
むしろ、自分たちへの攻撃を準備しているのではないかと警戒するかもしれません。
その結果、こちらも武器を持つ。
すると、相手はさらに武装を強化する。
お互いに自分たちの安全を守ろうとしているだけなのに、結果的に緊張が高まってしまう。
これは国際政治学でいう「安全保障のジレンマ」に近い構造です。
前回の記事でも、個人の合理的な行動が集団全体にとって不合理な結果を生むことがあると考えました。
ここでも似たような問題が起こっています。
自分たちを守るための合理的な選択が、相手の不安を高め、かえって自分たちを危険にさらす可能性がある。
なかなか皮肉な話です。
核抑止論にも同じ問題があるのか
ここで核兵器についても、少し考えてみたいと思います。
核抑止論は、相手から攻撃された場合に甚大な反撃を行う能力を示すことで、攻撃を思いとどまらせようとする考え方です。
一定の合理性があると思います。
ただし、抑止が成立するためには、相手がこちらの能力や意思を理解し、攻撃による不利益を十分に大きいと判断する必要があります。
相手が誤った情報を持っていたらどうでしょう。
あるいは、こちらの行動を攻撃の準備だと誤解したらどうでしょうか。
合理的な判断を期待していても、必ずしも期待どおりに行動してくれるとは限りません。
国連も、核兵器をめぐる誤算や偶発的な事態、緊張の激化による危険性を繰り返し指摘しています。
もちろん、イーヴァルの持ち込んだ剣と現代の核兵器を同一視することはできません。
核兵器は被害の規模も、使用された場合の取り返しのつかなさも、まったく異なります。
それでも、武力が相手への抑止になる一方で、脅威にもなり得るという構造には共通点があるように思います。
では、武器を持たなければ平和になるのでしょうか。
それも簡単にはいえません。
一方が非武装であっても、相手がその姿勢を尊重してくれる保証はありません。
逆に、双方が武装していても、一定の均衡によって戦争が回避されることもあるでしょう。
結局のところ、武力は平和を維持するための手段になり得ますが、平和を保証するものではないのだと思います。
そもそも、その土地は誰のものなのか
もう一つ、『ヴィンランド・サガ』を読んで考えたことがあります。
それは、土地の権利についてです。
トルフィンたちは、戦争や奴隷のない社会を作るためにヴィンランドへ渡りました。
しかし、そこにはすでに暮らしている人々がいました。
トルフィンたちが平和に暮らしたいと願うことは、もちろん理解できます。
一方で、先住民にも自分たちの土地や生活を守りたいという思いがあります。
ここで気になったのが、そもそもトルフィンたちには、その土地を自由に開拓し、住み続ける権利がどこまであったのかということです。
例えば、自分たちの所有地を守るために武器を持つことと、土地の利用について合意できていない状態で武器を持つことは、同じように評価できるのでしょうか。
現代社会では、土地の所有権や利用権について法律が整備されています。
ただし、すべての土地の権利が明確に整理されているわけではありません。
先住民族が長年利用してきた土地の権利など、現代でも難しい問題は残っています。
国連の「先住民族の権利に関する宣言」でも、伝統的に所有・占有・利用してきた土地などに対する権利が認められています。
もちろん、現代の法律や価値観を、そのまま11世紀の世界に当てはめることはできません。
それでも、この視点は重要だと思いました。
トルフィンたちに悪意はありません。
彼らは平和な社会を作りたいだけなのです。
しかし、自分たちが望む平和な社会を実現することが、別の人々の生活を脅かす可能性もあるわけです。
これは、なかなか難しい問題だと思います。
自分たちの正義を追求することが、必ずしも他者にとっての正義になるわけではありません。
そして、それぞれが自分たちの正義を守ろうとした結果、争いが生じてしまう。
この作品の描く対立の難しさは、こうしたところにもあるのではないでしょうか。
では、どうすれば平和を維持できるのか
ここまで考えてきましたが、明確な答えが出たわけではありません。
武器を持つことには一定の合理性があります。
しかし、武器を持つことで相手の警戒心を高め、対立が激しくなる可能性もあります。
一方、武器を持たなければ必ず平和になるというわけでもありません。
結局のところ、武力の有無だけでは解決できない問題なのだと思います。
重要なのは、相手が何を恐れているのかを理解し、双方が安心できる関係をどのように作るかということなのでしょう。
もちろん、話し合いだけで解決できるとは限りません。
相手が交渉に応じない場合もあるでしょうし、約束が守られる保証もありません。
それでも、互いの意図を理解しようとすることや、約束を守ること、信頼関係を積み重ねることには、大きな意味があると思います。
そう考えると、イーヴァルが剣を持ち込んだ問題も、単に武器があったかどうかだけではありません。
集団の約束を破ったこと。
武器の存在が相手にどのような意味を持つのか、十分に考えられていなかったこと。
そして、武器によって自分たちの安全を確保できると考えたこと。
こうした点を含めて評価する必要があるのでしょう。
それでも、僕はトルフィンの生き方に共感する
ここまで考えると、トルフィンの非暴力という理想が、いかに難しいものであるかがわかります。
正直なところ、僕があの開拓村にいたとして、何の武器も持たずに暮らせたかといえば、自信はありません。
家族がいれば、なおさらです。
自分だけなら引き受けられるリスクでも、大切な人を危険にさらすことには抵抗があります。
その意味で、イーヴァルの不安も理解できます。
ただ、だからといって、武器を持てば解決するという話でもありません。
相手を恐れるあまり武装し、その武装が相手の恐怖を生む。
そうした連鎖を、どこかで断ち切る必要があるのでしょう。
トルフィンは、その可能性を追い求めたのだと思います。
理想を完全に実現することはできなかったかもしれません。
しかし、だからといって彼の挑戦が無意味だったとは思いません。
むしろ、誰かがその可能性を信じて行動しなければ、社会はいつまでも変わらないのかもしれません。
武力によって平和を守ることはできるのか。
そして、武力に頼らず平和を守ることはできるのか。
どちらも簡単には答えられません。
ただ、この作品を読んでから、平和とは単に戦争がない状態というだけでなく、互いに安心して暮らせる関係を作り、維持していくことなのかもしれないと思うようになりました。
そのために何が必要なのか。
まだまだ考える余地がありそうです。
いや、本当にいろいろ考えさせられる漫画でした。笑
それではまた。
